ブログ

  • 行動量が自分を変えた。足圧を広めるために私が続けたこと

    足圧を仕事として始めたばかりのころ、私にはまだ知名度も人脈もありませんでした。

    どうすれば一人でも多くの人に足圧を知ってもらえるか。

    毎日のように考えていました。

    足圧を習い始めてすぐ先生から踏む経験が必要なのでモニター募集をしましょうとなり200人を目標に。

    そこから認知度を上げていくために色々な店舗にチラシを置かせていただくように片隅から電話をかけまくっていきました。かなりやりすぎて覚えていないぐらい必死でした。

    そこからお店のチラシを自ら一軒一軒ポスティングしました。

    冬から夏までほぼポスティングをしていたのを覚えています。

    自分から電話をかける

    足圧を知ってもらうために、地域のお店にチラシを置いていただけないか、一軒一軒電話をかけました。電話をすることに慣れていなかったので、最初は緊張しました。

    断られることもありましたし鼻で笑われたこともありました。

    それでも、電話をかけなければなにも始まりません。

    店舗には約50件ほどチラシを置かせていただきました。

    ポスティングは15000件ほど配りました。

    息子と一緒にまわっている一枚の写真です。

    電話一本かける。

    お店に一軒訪問する。

    チラシを一枚配る。

    SNSで一度発信する。

    一つ一つは小さな行動でも、それを積み重ねることで少しずつ結果に繋がっていきます。

    やってみて感じたことや身についたことはやり方やこれでお客様が来るとかではなく熱意だったり姿勢だったり行動することで感謝のレベルが上がってきた感覚でした。

    ただいい出来事ばかりではなく断られている数の方が多かったのも事実です。チラシを置かせていただくのもあたりまえじゃないとおもいました。

    このチラシを見つけて来店してくださった方が来たときは本当に嬉しく思います。

    新規の方が来るとどんな出会いになるかなとかここから縁が繋がっていくというのを想像するとワクワクしていたのをおぼえています。

    今も大切にしていること

    現在も、足圧ボディケアhyuruchiを通して、1人でも多くの方に足圧を知っていただきたいという気持ちは変わりません。

    これからも地域のお客様とのつながりを大切にしながら、足圧の魅力を発信していきたいと思っています。

    将来的には、日本だけでなく海外にも足圧を広めていきたいと思っています。そのためにも、これまで積み重ねてきた経験を大切にしながら、これからも自分から行動していきます。

    大きな結果を出すために特別なことをするのではなく、まず目の前にある小さな行動を続ける。

    私にとって「行動量」とは、単に沢山動くことではありません。

    自分が実現したい未来に向かって、一歩づつ進み続けること。

    これからもその姿勢を忘れず、足圧を必要としている方に届けていきたいと思います。

  • 走って、泣いて、叫んだ。高校サッカー「最濃の3年間」

    私のサッカー人生のなかで一番濃かったストーリーをお話しします。おそらくひくぐらいの当時の練習量や上下関係、目の当たりした人にしかわからない裏側の部分もお話ししていきたいと思います。

    私は中学を卒業し三重県のサッカー名門校である四日市中央工業高校に入学しました。四中工サッカー部というとプロサッカー選手を何人も輩出してきた歴史ある名門校です。

    私はサッカー選手への夢に近づけると思うとワクワクが止まりませんでした。

    しかし、高校に入りすぐ練習をすると先輩の上下関係の厳しさや地獄のような走り込みや練習量に心が折れそうになりました。

    当時全国の選手権に出ていた選手もいてその選手たちと一緒に練習ができていることが信じられませんでした。

    やっぱりプロを目指している高校は違うなと思いました。

    練習の前はグラウンド整備で石拾いからはじまります。雨の日は水たまりをドロドロになりながらスポンジで吸い取る作業の日々でした。

    練習後のシャワーや洗濯なども1年生が一番あとなどルールがあり厳しい練習にプラス先輩の厳しい上下関係で楽しさは一切ありませんでした。

    合宿では真夏にある砂丘合宿というのがありボールを一切使わず砂丘で走り込み、合宿場で夜みんなで輪になり筋トレだけという地獄の合宿がありました。

    筋トレは1人づつカウントしていきますがテンポが遅れたらまた1からやり直しという過酷な合宿がありました。

    まだまだ地獄のような練習があり真夏に80分2試合ほどした後100m100本ダッシュという四中工サッカー部のなかで有名な練習がありました。

    皆さん想像してみてください。35℃の真夏に試合を2試合トータルで160分。しかもスパイクの中が熱気で熱く足裏が火傷のように痛みもありそこから100mダッシュ100本全力疾走。

    一人でも走るペースが遅くなるとカウントされず100本までが遠く感じました。この要素も自分だけが走りきることだけではなくチームで走りきるという要素が入っている練習メニューでした。

    そんな過酷な練習をチームで乗り越え2年生になりトップチームに選ばれました。そこからの練習はまた別格のメンバーの環境化の中でやることになり本当に夢のような時間でもありました。

    その時の時代は四中工サッカー部は全国大会に出場するも滋賀県代表の野洲高校に負けてしまいました。ちなみにこのときの大会の優勝したチームは野洲高校で元日本代表乾選手がいました。

    そしていよいよ3年生になり最後の1年になりました。

    私はトップチームに残留するものの最後の最後でサッカーをするのが嫌になりなにをするにも気力なかったときがありました。病院で診察を受けることに。

    結果「燃え尽き症候群」で休養を取るようにと診断され6ヶ月間ほど練習も学校も行かない時期がありました。樋口士郎監督と母親と面談をし「士郎監督から哲矢を期待していた。非常に残念やけど前から元気がなかった」

    と心配されていたようです。

    冬の最後にはトップチームから外れすごく悔しい想いを経験しました。なんのためにやってきたのか現実を受け入れることができませんでした。母親にも申し訳なくも思いました。

    最後は全国大会に出場するも1回戦敗退。

    3年間の経験や想いがこみ上げ涙がとまりませんでした。

    高校3年間で得れたものはまず挨拶ができる人になる。感謝をする。仲間で一つの目標や達成に向かって進んでいけれるかなどサッカーを通じて得れるものだったと思います。

    苦しい経験や失敗が沢山あったからこそ人の痛みがわかり相手の立場に立って物事が考えられる人間になっていくものだと思います。人って正直成功話とか興味ないと思います。

    どんな経験をしてきたのかどん底の死ぬかもわからない瀬戸際の話のほうが心が揺れ動くと思います。

    この内容を見て私もまだまだできる、気持ちが楽になったあなたの話で命が救われたとなってもらえたらそれは私にとって嬉しいことですし決して無駄はなかったなと思えます。

    この続きは大学生からの挫折ストーリーを綴っていきます。

  • サッカー少年だった私が、身体と向き合うようになった中学時代

    私にとって中学時代は、心も身体も大きく変化した時期でした。

    小学校を卒業して中学生になると、サッカー部に入り、毎日のようにグランドでボールを追いかけていました。

    当時の私は、サッカーが大好きでした。

    特に好きだったのは、ドリブルです。

    自分の身体をどのように動かせば相手を抜けるのか、どうすれば自分の得意なプレーをもっと伸ばせるのか。

    そんなことを考えながら、毎日の練習に取り組んでいました。

    身体が小さいことがコンプレックスでした。

    中学1年生から上級生と一緒にトップチームの試合に出場する機会がありました。

    ただ、当時の私は身体が小さく、3年生の選手と比べると体格ではかなわないこともありました。

    「身体が大きい選手にはどうすれば負けないのか」

    そんなことを考えるようになりました。

    そこで意識したのは自分の長所を伸ばすことでした。

    身体の大きさでは勝てなくてもドリブルや足の速さなら自分にも武器がある。

    そう考えて、自分の得意な部分を磨き続けました。

    当時私が憧れていた選手はアルゼンチン代表のアリエル・オルテガ選手に憧れていました。この選手は体は小さいもドリブルやテクニックが上手い選手でした。

    中学3年生のときに2002年日韓ワールドカップが開催された時期でした。皆さんご存じだとは思いますがこの時代イングランド代表のデイビットベッカム選手が話題になりました。

    甘いルックスやモヒカンヘアで日本中が盛り上がったと思います。

    この選手を見たときにベッカムみたいなプレースタイルを「真似したい」と思った瞬間がありました。

    サッカー詳しい人はわかるかと思いますがとにかくフリーキックやクロス、キック制度が高い選手です。

    ボールをキックする姿を見て美しく感じこのような選手になりたいと思いました。

    そこからひたすらベッカムの蹴り方をほぼ毎日ビデオを見てスローモーションにしてどこで蹴っているのかとか細かく研究するようになりました。

    私が中学3年の年に練習中に大きい怪我をしてしまいました。

    スライディングをした際足が変な方向に曲がってしまい膝の靭帯を損傷してしまいました。そこから3か月ぐらいはサッカーができず悔しい時期をすごしました。スポーツは怪我をすると致命的だなと思った瞬間でもありました。

    中学時代の結果は3年生の時に個人では三重県選抜に選ばれ、チームではコカコーラカップ三重県大会では準々決勝まで勝ち上がりることができました。

    中学時代は実はサッカーの道から外れそうになったことも。

    中学2年生の私はとにかくやばかったです。

    不良の集まりにもいた影響でたばこは吸うはピアスあけるは窃盗するは真夜中に小学校の屋上にのぼりオイルをばらまき火をつけ遊んでいたり今思うとやばいことをしていたと思います。

    でもどこかにサッカーをもっと本気でやりたいと思っていたのですぐに環境を変えることができました。今思うとスポーツのおかげで助かったなと思う反面、やんちゃなことを経験しておいて良かったと思います。

    不良って実は孤独で寂しがりやな子が多いと思います。

    集団を作り仲間意識が芽生え自分自身の抑えていたものを発散できる場だったりときには助け合うこともある人たちだと思います。

    本当は優しい心を持っていると思います。

    そんな中学時代も終わり、これからどこの高校に入るかという進路を決めるとき私は迷いなくサッカー名門校である四日市中央工業高校に入る一択でした。

    ここからさらに沢山の挫折、濃い3年間のストーリーを綴っていきたいと思います。

  • サッカー選手という夢

    小学生時代の写真

    私は小学5年生~大学1年生の約9年間人生のすべてを捧げて、夢中でサッカー選手になるという夢を追いかけてきました。

    9年間のサッカー生活で直面した困難と挫折

    サッカーを始めた思いがけないきっかけ

    私がサッカーをやるきっかけは近所の方から息子がサッカーをやってるから一緒にやらない?と言われた一言からでした。

    しかし、私は野球がやりたいと思っていたためサッカーをやるなんて1ミリも思っていませんでした。

    母親に野球がいいと言ったところ「あかん!野球はダサい。サッカーやってるほうがモテる!」という理由だけで反対されました。

    私はいやいや地元のサッカー団の見学に行くことに。

    行くと見学だけかと思っていましたがコーチからボール蹴ってみな。といわれ私はボールを蹴りました。

    その瞬間から私のサッカー人生が始まりました。

    そこからサッカー少年団に入り毎日サッカーづけの日々。

    小学生時代の写真

    暑い日も寒い日もグラウンドにきてボールを蹴る日々。

    当時私は外で遊ぶよりゲームが好きな少年でした。

    なんで暑い日にグラウンドで練習しないといけないのと思っていました。

    ある日急にコーチから一回試合出てみよか!と言われ初となる試合に出ることに。

    なんとその試合で14点も決めコーチ陣が驚き笑いが止まらなかったそうです。その後私はすぐトップチームに入ることができ先輩たちと練習をすることになりました。

    サッカーをやっている写真

    トップチームに入るも先輩が厳しく怖い印象がありました。

    でもいま思うと上を目指している環境でできたからどんどん上達できたと思います。

    やっぱり環境は大事だと思います。

    私が小学6年生のときに保護者と代表と亀裂がはしり所属していた少年サッカー団がなくなる話しになりました。

    このときがまず初めの苦労した出来事でした。

    私はサッカー選手という夢を持っていたため絶対になくならせたくないと思い1人でもグラウンドにきて練習をしていました。

    コツコツやっているとまた集まるようになり復活しました。

    またみんなでサッカーができると思うと嬉しくてしかたありませんでした。

    1つ上の代は最後の大会で優勝したものの私の最後の大会では1回戦敗退という悔しい結果で終わりました。

    小学生時代はサッカー団がなくなっていたらサッカーをやっていなかったかもしれない、あのときに諦めずにやり続けたからサッカーを続けることができたと思います。

    私が思うのはなにか1つでも熱心にできることがある,

    好きなことがあるのは本当に強いとおもいます。

    その中に苦い経験や、人間関係の問題は付き物だと思いました。

    この続きは私が中学生のときの出来事や経験したことを綴っていきたいと思います。

  • 幼少期の思い出と家族の環境

    幼少期の写真

    私が生まれて月日が経ち7歳を迎えるころ両親が離婚しました。

    そこから私は母親側の実家に身を寄せ、祖父母のもとで生活を送ることになりました。

    父親がいなくなった分、母親は「子供たちを強く育てないといけない」という強い決意を持っていたようです。一方で、一緒に暮らした祖父母は心優しく、争いごとや揉め事をなによりも嫌う人たちでした。そんな環境で育った紹介をしていきます。

    代々受け継がれてきた価値観

    そんな我が家には、先祖代々で大切にされてきた言葉があります。

    悪い出来事も、すべていい方向に捉える

    この言葉を大切にしてきている家庭でした。

    一見するとつらいシチュエーションであっても、見方を変えれば成長の機会や感謝のきっかけになる。家族は常にこの考え方を大切にしていました。家族環境の変化という大きな節目において、祖父母や母親が示してくれたこの柔軟で温かい価値観は、幼かった私の心を深く支えてくれました。

    この経験から伝えたいこと

    環境の変化や予期せぬ出来事に直面すると、人は誰しも不安になります。しかし、「起こった出来事をどう捉えるか」は自分自身で選ぶことができます。

    祖父は一緒にキャッチボールをしてくれたり海にいって魚釣りに連れていってくれました。

    母親は病気をもっていたため仕事もバリバリ働けたわけではありませんでした。

    祖母はバリバリ働いていたためほぼ私の家計は祖母のおかげで成り立っていました。

    けして裕福な家庭ではありませんでしたがここまで成長できたのも家族があったから幸せに暮らしてこれたと思います。

    幼少期の写真

    これが私を育ててくれた家族です。

    最後まで読んでくださった方に一つだけお伝えしたいことがあります。

    あたりまえになった瞬間感謝ができなくなります。何気ない日常に幸せを感じてみるといいと思います。

    寝れる場所がある、呼吸ができている、話すことができる、目で色々感じれるなど五感を感じれるとあたりまえが感謝でき幸せに感じると思います。

    生きていることだけでもすごいことで母親から生まれてきた唯一1人としての価値ある存在であるということです。

    更には人になにかを与えることができればその時点で素晴らしいことだと思います。

    私がこの環境で育ったからこそ感じているのは、どんな逆境であっても「前向きな解釈」を選ぶことで、人生の歩み方は大きく変えられるということです。この記事が、今何か悩みを抱えている方にとって、少しでも心を軽くするヒントになれば幸いです。

    この続きは私が唯一集中できたもの人生の半分はその時間に費やしてきたもので何が得られたかを綴っていきたいと思います。